平成17年8月の初め、Harry Potter and the Half-Blood Princeを読み終えた。あれから9ケ月と2週間強。今度は日本語版を読み終えた。
英語版を読んだ時は、私の英語読解力不足で理解できてないんだろうと思った。衝撃的なシーンが、あまりにもさらっと流されていたから。それに、そんな展開は信じたくなかった。あまりにも辛い展開の中で、ダンブルドア校長先生の何気ないユーモアや「愛」があまりにも温かすぎて、最後の5章くらいは涙無しには読めなかった。日本語版を読み、また同じところで涙を流してしまった。
たかがハリーポッターですよ。でも、ハリーポッターなんですよ。
お子ちゃま向けの本だと思っているそこのあなた、大間違いですよ。
ダークなものがじわじわと迫っていながら そこに当たり前のようにある友情や家族愛がいかに素晴らしいものか、押し付けがましくなく 当たり前のようにそこ静かにあるpositiveなものにどんなに支えられているか…。
ハリーと闇の帝王の根本的な違いはどこにあるのか。その違いがその後の人生にどれだけの影響を与えているのか。
確かに、ハリーポッターシリーズは英国伝承話のいいとこ取りな部分もあります。例えば、英国伝承では「魔女はほうきに乗って飛ぶけど、魔法使いは飛ばない」というのが通常の認識です。しかし、ハリーはほうきに乗って飛びまくり、おまけにクィディッチなんていうゲームまでやってます。
でもね。そんなこたーどーだっていいんです。
さて。巷では
「ダンブルドアは蘇るのか!?」「スネイプはどっちの見方なのか!?」といった論争が巻き起こっていますが、英国文学最高峰と言われる『指輪物語』を引き合いにだして、私なりの推論を述べたいと思います。
『指輪物語』における 灰色のガンダルフと『ハリー・ポッター』におけるダンブルドア校長先生の存在は 「賢者である」「謎めいたことを言いながらみんなを引っ張っていく」という点で かなり似ていると思われます。『指輪物語』では、ガンダルフはバルログとの戦いでカサド=ドゥムの橋から落ちた後「そなたの役目は終わってはおらぬ」ということで 再び肉体に命が宿り白のガンダルフとして蘇ります。
物語の登場人物には それぞれの役割がありますし、その役目を終えてから去っていくわけですが、ダンブルドア校長先生が役目を終えたようにも思えるし、役目を終えてないようにも思えるのですよ。まぁ、ダンブルドア自身は「ハリーなら任せられる」みたいなセリフを吐いてますから、役目を終えたと考えた方がいいでしょうね。なので、ダンブルドアは蘇らないほうに1票。
また、『指輪物語』では ビルボに情けをかけられたゴラムが最終的に指輪を捨てることに貢献しているわけで、その点 『ハリーポッター』でもハリーに情けをかけられたワームテール(ピーター・ペティグリュー)が何らかの形で闇の帝王を葬り去るのに役立つと考えていいかもしれないですね(ものすごい推測ですが)。
で、
問題はスネイプよ。スネイプ。 「我が輩は…」という口調と、めくれあがった唇と、アブラギッシュな黒い髪と。
あのダンブルドアが「わしはスネイプ先生を信頼しておる」と言って憚らないスネイプさんですよ。その信頼の根拠は何なんだよ!?と時々問いつめたくもなりましたけど。死んでしまったから問いつめられないわよ。
英語版を読んだ時は「2度とスネイプなんか信用せん!!」と怒ってました。今でも怒ってます。スネイプが許されざる呪文を口にするなんて。
んで、R.A.B.とは誰なのか。B=Blackとしても、RとAがわからん。掛け言葉の上手い作者のことなのでAは人名と見せ掛けて実はandだったりする可能性あり。
日本語版翻訳者も、掛け言葉の遣い方や漢字の持つ意味を上手に遣っての翻訳がすばらしく上手な方だな、といつも感心してしまいます(トダナさんとはえらい違いだ)。
例えば第三章
Will and Won'tのWillは「やるよ」という『意思』と、遺言という意味の『遺志』の掛け言葉になってます。なので、この章の日本語タイトルは
『意思と遺志』。 すっげ〜。目からウロコだったよ、このタイトル。
いろんな謎を残したまま、ハリーは魔法界での成人を迎えます。
生き残った男の子に乾杯。