大切なたったひとりの人以外、行き先は告げていない。
札幌から列車に乗り、函館にいる懐かしい人に会いに行ってきた。
列車で4時間。往復8時間。福岡県在住の人間からすると、とんでもない乗車時間である。福岡県から鹿児島県まで、新幹線で1時間20分もあればついてしまう。4時間も列車に乗っているのに、他県にすら出ていない。なんたる広さ!
札幌から函館まで、列車は牧草地を抜け、海沿いの漁師町を走り、火山の近くを通り、そして街へとたどり着く。4時間の旅の間、私は牧草地で家畜の世話をする人、農業を営む人、毎日漁に出る人、それぞれの生活を思わずにはいられなかった。酪農家も農家も漁師も、自然を相手に生活の糧を得ているのだ。彼らは日々何を願い、何を思い、何に幸せを感じているのだろうか。彼らにとって「自然」とは、ただの福祉屋である私が感じる「自然」よりももっと大きな意味を持っているのではないか。私は何も知らないまま、福祉の仕事の一翼をただ担ってしまっているだけではないのか。
福祉の世界では、「伴奏型」「寄り添い型」の支援がスタンダードになった。しかし、何をもって「伴奏している」「寄り添っている」と言うのだろうか。
憐れむとは何なのか。
端的にいうと、「あなたの苦しみを、私も担いますという思い」がどれだけ相手に伝わっているかということだと思う。実際に苦しみ全部や問題の解決の全てを引き受けることではない。
その違いを理解せず、ケース会議で「わー、大変な家庭ですねー」としか発言しない職員など、会議に参加する意味がない。その職員に学ぶ意思があるなら、会議に参加する意味があるだろうが。
この土地での日々の生活を理解すること。
個別的な意味でも、町全体、市全体という意味でも。
福祉は個別にも、全体にも作用するものでなければ。
そんなことを考えていたら、函館に着いていた。正確には五稜郭駅である。「懐かしい人」とそのご家族が迎えに来てくれていた。
せっかく北斗6号に乗ったのだから、十津川さんや亀さんに会いたかった。洞爺あたりでサングラスにつばの広い赤い帽子をかぶった髪の長い女性があたりをうかがいながら下車するんじゃないかと期待していたのに。
十津川さんたちに会えなかったのが残念で仕方ない。